煙に巻かれてみたい

が家には顔も声も知らない人の遺骨がある。

 

どういう人生を歩んでいた人なのかは知らない。ろくでもない人間だったということしか、母の口から断片とも言えないくらいの情報しか、知らない。

かれこれ二年ほど、我が家の片隅に放置されている。時々遺骨のそばに花が飾られているのを見かける。乾いた葉っぱを猫が齧っていることがあって、そこでようやく私は遺骨の存在を思い出す。

この人の人生ってなんだったんだろうな、と。思うことがある。

どういう最期だったか、という話は状況でしか知らないが、自死と判断を下す余地のある状況だったので、身内は恥ずかしくて葬式もできないというような話で、葬儀もなく墓に入ることもできず、我が家の片隅に佇んでいる。これが小説なら、夜な夜なカタカタと音を立てていたことだろう。

実際は日常生活の視界に入ることもなく、そこにいたのか、と時々思い出す程度だ。

自分の死後、こんな扱われ方されたらどうだろう、と考えてみたけど、やっぱり死んだ後のことなので、割とどうでもいい。

 

 

 

たしか、遺骨がくるちょっと前に、私は真っ当に仕事を始めていて、そこはかとなくブラックなんだけれども、止むを得ずブラックなので、私は今までニートしてて同年代よりも遅れた社会性とかなんかそんなものを取り返すように黙々と仕事してみた。

三ヶ月に1回くらいメンタルが崩壊して仕事中に泣き出すこともあったが、最近はそれも減った。理不尽には慣れたが、時々泣けるほどむかつく。泥臭い仕事をしている気持ちになることもある。華やかな仕事に憧れることもある。

でも、今の仕事の楽しさもわかってきて、癖になってしまっている。

失敗をすることもあるけど、正解に近いものを導き出せたときは嬉しい。それはきっと生きていく上で当たり前に起こりうることだったんだろうけど、今までこんなに生きがいに近いものを垣間見ることがなかったので、「普通」が何なのかをなんとなく理解しつつある。

 

 

 

昔から、煙草の匂いが好きだった。父親がいつも煙草を吸っていて、煙草の匂いがしていて、なんだかその煙たさが、好きだった。幼い頃は欲しいものを買ってくれる優しい父親に見えていたけれど、人間性を理解する年になると、父親が嫌いになっていった。煙草も好きにはなれなかったけど、煙草の匂いは好きだった。

学生のとき、喘息もちの彼氏がいて、彼が煙草を吸い始めたときは、未成年であることと、健康上の理由で、煙草を吸うなら別れるから、なんて言って、結局煙草に勝てなくて別れてしまったので、やっぱり煙草が嫌いだった。

でもいまだに、煙草の匂いが好きで、嗅ぎたくなってしまう。

 

そんなわけで、魔が差して家にあったキャメルの試供品を開けて、初めてまともに煙草を吸った。正直な感想を言えば、何がいいのかさっぱりわからなかった。どうしてこんなものを吸うのかもわからなかったけど、煙草の匂いが好きなので、また火をつけてしまう。煙を吸いすぎて噎せて、あまりにも慣れない所作が格好悪くて1人で笑ってしまう。匂いが残らないように部屋の窓を開けて、ファブリーズかけて、コーラ飲んで口臭をごまかして、なんとなく悪いことをしているようで、興奮した。アホか?

窓辺で煙草をふかして物憂げになりたかったが、実際は灰が布団に落ちたりしないかヒヤヒヤしながら吸っていた。まるで雑魚だ。

その辺のメンズものの香水を嗅ぐよりは、何倍もときめくんだよね、煙草の匂いって。

 

口の中で出来上がるスモークタンの苦味に、これはキスしたらあかんやつやんって思いました。

 

今、指先が煙草くさいことに気づいてしまったので、そのうち喫煙者の指先を鼻に突っ込んで匂い嗅いでしまわないかしら。

 

日常にもっとときめきがほしい。

偽撃転殺の計

う戻れない、というのが好い。

 

一族記とか、全体小説と言えば赤朽葉家の伝説とか百年の孤独くらいしか読んだことが無いんだけれども、割と好きです。良い時期も悪い時期もあって、その波に揺られながら細く太く繋いでいくそのドラマチックさとか、面白さを訊ねられたら推せるポイントはあるんだけれども、別に誰かに推したいとか言うわけではなく。ただちょっと涙腺が緩んだというだけの話がしたい。

 

 

随分前に作業用として観ていた俺屍実況があるんですけど

 

 

これが好きで好きで、今でも時々見る。世代としてはヤバ吉の頃が一番好き。

 

そんでな、軽い気持ちでな、MAD観ちゃったらね、自分でも困惑するくらい泣きそうになってな、これだから一族記はやめらんねえぜ、みたいな気持ちになって。

 

 

作者の絵が上手いのもあるんだけど、真名姫戦のワンカットとか世代交代のタイミングの1人だけ残してメンツがごそっと変わる演出とかグッと来て一瞬息が止まっちゃった。ずるい。小憎い。

 

俺の屍を越えてゆけ自体がずるいゲームだもんなぁ。後悔に似た悲しみみたいなのすごく嫌いなんだけど、すごく好き。

 

 

 

誰かが何かを成し遂げたとき、志半ばで先立った者たちの気持ちを勝手に考えて、勝手に泣けてしまう。

三者目線の身勝手で無責任なカタルシスを定期的に摂取して自分のしょうもない人生から目をそらしてお茶を濁していきたい。

 

虚誘掩殺の計

きっと半角スペースよりも狭い

ハムメロンを知ったきっかけが漫画だったことが悪いのか私の味覚センスによるものかは分からないが、切ったメロンの上に生ハムが乗ったギャグ漫画じみたものにも食べる作法があると知って以来、生ハムメロンがこの非情で冷酷な現実に存在する世界の綻びの様に思えて不安になる。世界の綻びって何ぞやと聞かれても困るけど。

 

いつから始まった趣味というか癖なのかは自分でもはっきりと覚えていないが、昔から好きな曲の歌詞を書き写すのが好きで、今でも時々気に入った曲があれば歌詞サイトを見ながら使いかけのノートに言葉のひとつひとつを飲み込む様に書き写している。最近だと私が敬愛するミュージシャンである中田裕二さんの静かな朝という曲の歌詞を、サビが一番好きで思わず前のめりになるような勢いで書いた。寝起きにサビのワンフレーズがリフレインされるような中毒じみた症状がでたこともあった。で、まぁ一番好きなサビのワンフレーズなんですけど。

「愛が故ならば 燃え尽きて良かった」

こういう、直球でいて少し遠回しな表現すごく好きで。初めて聞いた瞬間に、あぁずるいなぁって感想が出てきて、自己陶酔にも似た気持ちで何度も聞いた。自己陶酔よりも自己投影の余地が欲し……いや、やっぱ欲しくないかな……

 

私のブログをくまなく読んで自然と忘れてくれてる人たちには今一度ほんのちょっぴり思い出して欲しい。かつて私がひーひー言って頭を掻きむしりながら笑ったとされる例のヤバイDVDの話なんだけど。


minaconaco.hatenablog.com

 

これね、

 


カジャラ#1『大人たるもの』より「ならんだ大人たち」

 

随分前ではあるんだけどYouTubeで見られるようになったので、お手隙でしたら是非観ていただきたく候。

どのネタも面白いんだけど、一番好きなのは「しあわせ保険バランス」かなぁ。

「ならんだ大人たち」みたいな抽象的なネタで笑えるならラーメンズのコントはだいたい笑えると思うのでラーメンズのコントも是非。

 


ラーメンズ『TEXT』より「スーパージョッキー」

 

最近のオススメはスーパージョッキー

 


[HD] ラーメンズ『ATOM』より「採集」

 

ミステリー好きは採集みて。ミステリー好きとラップ好きはみて。

 


ラーメンズ『ALICE』より「不思議の国のニポン」

 

「千葉!滋賀!佐賀!」もいいけど都道府県ネタならこっちも好き。

 


ラーメンズ『STUDY』より「金部」

 

変なのが好きならみたらいいと思う(もう何でもいいから観て)

 

 

今月の初旬くらいに、本屋でここぞとばかりに母親に本を集るつもりで文庫本の棚に張り付いて小説コーナーを行脚してたところ、ふと土俗ホラーが読みたくなって。今までミステリーに傾倒して読む本選んでたんだけど、土俗ホラーはあくまでホラーだから今まで眼中になくて、いざ探すとなるとどこをどう探していいかもわからず。作家のアテがあるわけでもなく、まさかホラー系のレーベルがあるとも思い至らず、戦略的撤退もやむなしと思って本屋を後にしたんですけど、その場で土俗ホラーのオススメでググったら良かったんですよね。でも足が痛くてそれどころじゃなかった。

なんで不意に土俗ホラーが読みたくなったのかというと、土俗ホラー好きなんすよ……でも小説で読んだことはなく、唯一それっぽいものといえば屍鬼かもしれない。

土俗ホラーが好きになったきっかけがフリーホラーノベルゲーム実況で、あれは作業用に垂れ流すのにうってつけだった。(たまたま見た実況者の声が中田裕二の声に似ていて好みだったというのもある)

土俗ホラーの面白いところは、どこか辺境の地で脈々と続く歴史が民俗学と怪奇とミステリーと近親相姦や禁忌にまみれているところで、だいたいはそれが終わりや破滅に向かう話なのでそりゃもう舌舐めずりしちゃうよね。好きだもんそういうの。英雄が自分自身や文明を代償に世界を救うタイプの(正義や主人公の)終わりに向かう話も好きなんだけどそれとは区別して好きで、過去の因縁が後になって最悪の形で現れるだとか近親相姦だとか恋心と信仰の対峙だとかもう土俗ホラーとは名ばかりのミステリーや恋愛ストーリーなわけで。海外ドラマのウォーキング・デッドでかつて人間の脅威だったはずのゾンビがやがて飾りになってしまったみたいに、土俗ホラーもホラー要素が飾りになる。時々思い出したようにその脅威を見せつけてくるけど、土俗ホラーの本質はたぶんホラーではないのだ。たぶん。

次に行く時は絶対に角川ホラー文庫とか坂東真砂子で探してやる……

その前に積んでる80冊以上の小説類をちょっとでもいいから消化しような。

カラマーゾフの兄弟ドグラ・マグラも上巻だけ読んで放置しているから上巻を読み直す必要があるとか、考えただけで気が遠くなるようで、無限に本が出てくる本棚を手に入れたような高揚感もあり、頭を抱えるべきか諸手を挙げて喜ぶべきかで両腕が落ち着かない。

 

 

春になったら働けって母親にケツを蹴られたにも関わらず未だに母親の職場でもある学童保育の代替要員としてフットワークの軽さにも似た曖昧で不規則なふざけた生活を続けているんだけども、毎月2,3日程度は絵を描く木偶の坊みたいな働きをしつつ、母親が吐き出す職場の愚痴に対する理解を深める為にも観察したりコミュニケーションもとったりしていて、かつての自分だったり過去見てきた児童を思い出しながら子供と付き合う内にだんだん昨今の子育て事情が浮き彫りになっていく中で、光陰矢の如く去る自我も曖昧な未発達の情緒をどうとでもできるような柔くて繊細で一生のうちで大切な時期にも当たる年齢の子供達を少しでも正しい方向(これは便宜的な表現)に導く為にはどうしたらいいか、ということをよくときどきふとそのときの気分で考える。

学童保育に預けられる子供というのは基本的に共働きの家庭が多く、家庭環境としては今も昔も大きな違いは無いように思うのだけど、私が学童保育にいた頃の子供達と今の子供達じゃ百八十度くらい違う。あんなに何人も発達障害アスペルガーの子は居なかったような気がする。自分本位な言い方が許されるなら「聞き分けのいい子が減った」と言いたい。リーダーシップをとる気も無いのに大声で威張られるのはこちらも手を焼く。

ちなみに私は保育士の免許もなければ保育専門学校に通っていたわけでもない。ズブの素人である。母親はその道の人ではあったが、別に教えを乞うこともない。知らない方が無責任でいられると思っているのもある。

無責任でいたいが、彼らのいずれ記憶に埋もれて見つけられなくなってしまうであろう思い出に花を飾ってやりてえとも思っている。それもやっぱり無責任に思っている。

思想や思考の舵を取りたいと無責任に思っていて、思った通りにいかなくてもまぁそんなもんだよなと諦めたように思うこともある。母でも随分煩わされているようなのだから私のような素人にできるもんでもないのだろう。

こういうとき、自分の経験や知識でねじ伏せるような強引さでもなんでもいいからうまいことやりたいと思う。プロでなくてもものの道理を理解しさえすれば何にでも応用出来るのだ、というのを体現したい。が、圧倒的に経験も知識も不足しているので早々に手詰まりしてしまう。足りない。その足りなさを補うための努力は、やりたくない。生きている間の努力は、「納得される形で死ぬ方法」に尽くしたい。それは今のんべんだらりと模索しているところだ。

 

 

「心中」を英語で言うと「ダブルスーサイド」になるのすごく好き。

 

 

 

 

心中がダブルスーサイドなら中心はドイサースルブダなのか?

差したままの憧憬

 それは短い春が終わって夏が始まる前の、季節が曖昧な灰色の空の時期の、最後の夜だったと思う。
 中学生の中だるみの時期だって先生も口酸っぱく言っていた2年生の、一番ぼんやりと過ごしたであろう年が今でも鮮明に思い出せるのは、その夜に空から降って庭に突き刺さったモノリスの所為なのは確かだ。
 それまでの寒い夜からどんどん気温を上げて布団も軽くなって、寝入るにはちょうどいい温度が続いていたから、単に先月の連休で崩れた生活リズムが続いて寝付けない私は、窓を開けてぼんやりと月も星もない真っ暗な空を眺めて、時折鼻先を撫でていく風の匂いを嗅いでみたりしながら、柔らかい風が眠気を運んでくるのを待っていた。
 土と草と夜の匂い。昼間とはまるで違う世界が実はちょっと好きで、月明かりも星の煌めきもない暗闇の夜でも、私はいつまでも外を眺めていられた。家の裏にある田圃と川を挟んだ向こうにぽつぽつと並ぶ街灯とか、その下を走る車のヘッドライトとか、月や星には劣るけど私はそういう光も好きだった。
 だからそんなふうに、その夜もぼんやりと過ごして眠くなるのを待っているものだと思っていた私は、赤とも黄色ともつかない色の尾を引いて轟々と唸りながら庭に何かが落ちる1分にも満たない出来事を、その時は夢の中の出来事だと思った。庭に出て確認することもなく、その後はどうしたのか思い出せないけれど、いつになくすっきりと目が覚めた朝は、はっきりと昨夜の出来事を覚えていて、私は普段よりも一時間もはやく起きたのにまるで遅刻寸前みたいにばたばたと大きな足音を立てて階段を降りた。朝食の準備をしていた母に、もう少し静かに降りなさいって窘められたけど生返事をして私は庭に面した窓ガラスにべったりと張り付いた。少し息が上がっていたから窓ガラスが曇って庭が見えなくなったりしながら、昨夜の痕跡を探した。
 雲ひとつなかった昨夜の空をそのまま引き継いだみたいに晴れ渡っていた空は白っぽい水色で、清々しくて、眩しくて、朝露で濡れた瑞々しい庭に反射して、キラキラしていて綺麗、それなのに芝生は長らく手入れされていないから草が伸び放題で、誰も踏み入れたことのないジャングルの奥地の神秘的な雰囲気だけ切り取って持ってきたみたいだった。ここに見たこともない大きな花が咲いていればそれっぽくはなっただろうけど、どこからか飛んできた野草の花がぽつぽつと根付いたりして、化け物みたいな大きさのタンポポの綿毛がそよそよと風に揺れている。
 そんな我が家の小さなジャングルの片隅に、朝露に濡れる焦げ跡と、生い茂る葉に隠れた窪みと、背伸びしてやっと見えた黒いモノリスがあった。つやつやと光を反射して表面が白っぽくみえるけど、黒くて平べったい板が、斜めに突き刺さっている。本当に、あった。
 昨日の夢の続きを見ているような不安を拭うみたいに、堪らず声を上げた。よくわからないけど、なんだか心臓がどきどきしてきて、足元がふわふわするような離人感で体が揺れそうになって、曇った窓ガラスに手形をつけた。
 「ねぇ、お母さん。庭に何か刺さってるよ」
 言ってから、幻覚を見ていた様な気がして、慌ててもう一度庭を確認した。
 黒くて平べったいそれは、斜めに突き刺さり、よぅく見てみるとそこは母がもう随分前に諦めてしまった家庭菜園の区画で、まるで墓場か何かの様に見えた。
 「なぁに?」
 手元に視線を落としながら、母が台所から聞き返す。
 「庭に、なんかある!」
 生い茂る草の向こう側を指差して言うと、母は首を伸ばして庭に面した窓の向こうをちらりと見て「ふぅん」とつまらなそうな声をあげて、それっきり視線を元に戻してしまった。
 「いいから早く、学校に行く準備をしなさい」

 

 

 

 いつもより早く起きたものだから、学校に着くのも必然的に早くて、普段通りの時刻に登校してきた友達が普段は遅刻している私を見て驚いたように時計を見た。3人も。
 登校中、家から遠ざかるごとにどんどん庭に突き刺さったモノリスのことを忘れていて、授業が始まる前の、チャイムが鳴って先生が教室に入ってくる間のわずかな時間に、誰かが「昨日の夜、」と言い出したのが聞こえて、やっと思い出した。自分以外にも暗闇の夜を裂いて飛んでくるモノリスを見た人がいるのかと思って心臓が跳ねた。けれど続いた言葉は「地震があってさ〜、びっくりして飛び起きたんだけど」だったので無意識に止めていた息を吐いた。肺に穴が空いた様なふわふわしたため息が出て、力が抜ける。それ以外に誰も夜にあった出来事の話をしないから、私も何も言い出せずに、その後は日常に紛れるみたいにすとんっとモノリスのことは忘れてしまった。
 下校中にふとモノリスのことを思い出したのは、家に着いて玄関の鍵をひねった時だった。解錠の音と同時に記憶の蓋をこじ開けたような唐突さで、今朝リビングの窓から見た斜めに突き刺さるモノリスが情景として思い出される。露に濡れた、つやつやして黒くて平べったい板。夢みたいに突然空から降ってきた、庭にある我が家の家庭菜園の墓。ジャングルの奥地みたいに伸び放題になってる安っぽい神秘の芝生、の、今は一番の神秘。
 行儀悪く玄関にカバンを置きっぱなしにして、家族共用になってるくたびれた長靴に履き替えて庭へ向かった。いつもなら制服も着替えただろうけど、そんな余裕がなくて、半日過ぎてようやく私は昨夜の出来事を裏付ける物証を間近に見た。膝下に広がるジャングルを踏み荒らして、小さなクレーターの真ん中にあるモノリスに影を落とす。しゃがんで顔を近づけると、黒く焦げた葉っぱの匂いがして、懐かしい気持ちになる。
 恐る恐る指を伸ばしてモノリスに触れた。朝露の綺麗な光の粒はもうとっくになくなっていて、表面をなぞるとざらりとした感触が返ってきた。指先は煤とも土埃ともつかない焦げ茶色に汚れたので、その辺の葉っぱに拭おうとして、手を止めた。虫がついていて、ひゅっと喉が鳴った。逃げるようにして家に入り、そのまま玄関の段差に腰掛けた。三和土には季節外れの靴とか、洗車用のバケツとか、灯油のポリタンクなんかが置きっぱなしになっている。しばし放心した私は、ネジを巻き直したゼンマイ仕掛けのロボットみたいに機械的に、機敏に、動き出した。カバンを乱暴に掴んで、2階の自室まで駆け上がり、乱暴にベッドにカバンと制服を脱ぎ捨てて、部屋着に着替えた。それから玄関のバケツを持って洗面所で水を入れようとして、ふと昨夜の風呂の残り湯を思い出した。浴槽に沈めたバケツを持ち上げると思いの外重く、一旦力を抜き、それから一気に踏ん張って持ち上げた。ざぶざぶと水をこぼしながら、庭へ向かった。だいぶ見慣れてきたような気がするモノリスに、一筋なぞったような跡があったが、上からバケツをひっくり返すとそれもみるみるうちに消えていった。あまり水はけのよくない土が懸命に水を吸っていくし、表面がすべすべになったモノリスは弾いた水の粒をぽろぽろとこぼしていった。
 黒くて平べったい板は思ったよりも厚みがあって、大きさもちょうど授業で使う便覧みたいだった。
 便覧は、重くて厚いわりには授業でそれほど使うわけでもなく、かといって必要に応じて持っていくものではなく、教科書ノートに並ぶ必須の本だったことが生徒の間では不評だった。私もどちらかといえばあまり好きなものではなかったけれど、でも大きさも厚みもモノリスと便覧はよく似ていて、同一視してしまう。
 その日から私は、授業で便覧を開いてはモノリスを思い出し、家に帰ってはモノリスに水をかけていた。
 休日だって、高校受験の時だって、高校の大事なテストがあった日だって、欠かさず毎日モノリスに水をかけていたし、最初はバケツを使って水を真上から落とすみたいに浴びせていたけど、程なくしてホームセンターで手頃なジョウロを買ってもらってからは、花に水をやるみたいな慈しむようなシャワーに変わった。
 とある夏の日に、雑に虫除けスプレーを足にかけてから庭に回って、日課モノリスの水やりをしていた時のことだった。家の裏にある田圃の様子を見にきていた、たぶん農家の人、が眩しそうに目を細めて庭と2メートルくらい高低差のある田圃の淵の畔に立って私を見上げて言った。
 「お嬢さん、朝顔に水やりかい?」
 懐かしむように目尻や口元にシワを作った男の人は、声をかけられた時はアルバイトの若い人かと思ったけれど、顔に刻まれたシワの深さは若い人には見えなくて、おじさんと呼べばいいのかお兄さんと呼べばいいのかわからなくて困りながら、小さな声で「朝顔じゃないけど……」と返した。日に焼けたシワシワの顔は、くたびれたお父さんの財布みたいだった。お父さん曰く、味のある革の色。くしゃっと笑った茶色のツヤのない柔らかい革。何が面白かったのか「ははは!そうかそうか!」と快活に笑って田圃の淵を歩いては、ときどき降りてくる鳥を手を叩いて追い払っていた。
 結局おじさんだったのかお兄さんだったのかわからずじまいだったけど、あの人は夏の間ときどき田圃の淵をゆっくり歩いて、ときどき下手くそな口笛を吹いて、夏が終わる前に見なくなってしまった。

 

 

 

 父が倒れたという知らせを受けた時、ちょうど私は久々に集まった同級生数人とようやく慣れた職場についての愚痴をこぼしながらカプレーゼのチーズだけを食べて安いハイボールを飲んでいたところだった。昔はよく遊んでくれていた父の、力強くて頼もしいイメージが蘇って、一気に酔いが覚めた。滅多にかかってこない母からの電話だったが、涙ぐんだ声も相まって深刻さが窺えて、指先を震わせながら通話を終えて、深く息を吸った。金曜の夜だったことが幸いして、日付は変わってしまったが私よりも実家に近いところに住む姉よりも早く着くことができた。
 病院のベッドに静かに眠る父の顔は土気色で、10年ぶりくらいに私はとある夏の日に会った、おじさんなのかお兄さんなのかわからなかった男の人を思い出した。健康的なツヤがあるわけではないけど、年季の入った革製品の味のある色。くしゃりと柔らかい革みたいな、男の人。お父さんはあの人みたいに、味のある色にはなれなかったのか、と思うとぽろりと涙が出てきた。ぱりっとした病院のシーツは涙を吸うことなく弾かれた雫はわずかな振動で呆気なく転がるように床に落ちた。
 泣き疲れたような母に代わって姉が父の様子を見てるからと言って、私と母に家に帰って休むように促して病室から追い出したので、私は母と疲れ果てたように口数少ないまま実家に帰った。月も星もない真っ暗な夜だった。静かな闇夜を裂くように、母が声を震わせて家の玄関前で「お父さんね……癌なの……」と言った。
 それから、父は10年かけてゆるやかに死んでいった。既婚の姉はずいぶん前に花嫁姿を見せ、第一子の顔を見せ、正月とお盆には欠かさず子供を実家に連れて行き、絵に描いたような親子の義務を順当に果たしていたが、私といえば未婚で、父が倒れてから3年くらいは母に気を揉ませていた。年に何度も帰省していたが、父のことを思って母が私にも義務を果たすことを求めるようになってからはなんとなく息が詰まって、足が遠のいた。だからその頃にはもう、私は庭に突き刺さっていたモノリスのこともすっかり忘れてしまっていた。
 父が倒れてから3年程経って家族から離れ仕事や友人付き合いにかまけていた頃、異例の大出世を遂げたという友人が涙の粒ほどの宝石がついた指輪を神妙な顔つきで私に差し出した瞬間から、トントン拍子で事が進み、どうにか父が生きている間に、姉に倣って義務を果たすことができた。
 父がいよいよという時に病院から一報を受けた母と姉と私は、ベッドに横たわる父を囲んでその顔を覗き込んだ。頬が痩け眼窩が落ち窪み、おおよそ生気というものを感じられない土気色の顔が、ひきつるように動いた。ぷぅんと死の匂いがする。鼻腔に張り付くような、カラカラに乾いた枯葉と腐葉土の匂い。
 骨と皮だけになった父は満足したように少し笑って、それからがぽっと音を立てて肺から空気が抜けた。心電図モニターの波形は平坦になり、耳鳴りのような音が響く。母の咆哮のような泣き声も轟いて、駆けつけた医者や看護師を困らせた。
 そんな母も20年経って老人介護施設に移り住むこととなり、住む人のいなくなった実家は取り壊されて更地になった、と先日姉から連絡があった。
 少し寂しく思いながらも、ふと私は庭に突き刺さっていたモノリスのことを思い出して、週末は出かけることを夫に伝えた。二つ返事で了承した夫は、スマホを取り出して友人と連絡を取り始めたので、口元でゆるく微笑みながら、もうずいぶんと目にしていないモノリスのことを考えた。
 結局、あれは何だったのだろう。
 黒くて、平べったい板。不時着みたいな唐突さで庭に轟々と唸りながら眩い赤とも黄色ともつかない尾を引いて、闇夜の空を裂いた夢で見たような出来事。
 人並みに生きた様に思う人生の中で、棘みたいに刺さっている不可思議な思い出。その後の経験のどれとも結び付けられない出来事。砂利だらけの更地を見れば、もしかしたらモノリスのことも夢だと思えるかもしれない。そう思って、週末は散歩する様な心持ちで実家があったところへ向かった。
 結論から言えば、モノリスはまだそこに突き刺さっていて、周囲の小さなクレーターこそ埋められてはいたけど、黒い平べったい板だけはそこに刺さったまま残っていた。夢ではなかったのか、と声に出たかどうかわからない。
 しゃがみこんで土埃でざらざらになったモノリスを指でなぞった。来る途中に買ったミネラルウォーターの残りを全部かけても、もうモノリスは綺麗にはならない。
 これが何なのかわからないけど、モノリスはここにあって、ここにはぼうぼうに生えた草や花があって、母が作ろうとしていた家庭菜園もあった。あった、のだ。

 

 家の最寄駅に向かう電車に揺られながら、家に帰ったら夫にモノリスの話をしようと思った。きっと友達と飲んで帰って来るだろうから、一杯だけ私の晩酌に付き合わせて、眠たそうに返事をする夫にモノリスの話をしよう。
 もうすぐ帰る、と連絡を寄越した夫の帰宅時間を見計らうように、晩酌の準備をしていたら、本当にすぐに帰ってきた。ずいぶんとご機嫌の様子だったから、あと一杯だけ私に付き合ってと言えば簡単に了承した。クラッカーにハムやチーズを乗せていると、夫が冷蔵庫からウイスキーを取り出して、「あっ」と声を漏らした。
 「そういえば中学の時、夜中に大きな地震があって飛び起きたんだけど、次の日クラスのみんなに聞いても誰も地震なんかなかったって言ってたんだよな……あれ、ずっと不思議でさぁ……」

 

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メモーリア・プラエテリトールム・ボノールム

の幸福の思い出、という意味らしいです。

 

つい先ほど、シャーリイ・ジャクスンの「ずっとお城で暮らしてる」を読み終えて、とんでもない物を読んでしまった!という気持ちになりながら読書メーターブクログを更新して、若干放心したまま何を言おうか考えている。脳裏にちらつくのは火と小川と美しい庭、それから少女の笑顔と恐ろしい素顔!

それまでの日常から一気に破滅へ向かう様をクローズアップして描かれる話といえば、と聞かれたらいくつか挙げられるくらいにはシナリオとしてはありきたりなのかもしれないけど、それでも私はこの手のシナリオには弱くて、最近でいえばFF15なんかがその典型だったけど、「ずっとお城で暮らしてる」は微妙に違っていて。確かに序盤なんかは日常から始まって、でもその日常が彼女にとっての「最後」であることをチラつかせていて、一体何が起こってしまうんだ!とそわそわしながら読むものの、忍び寄る足音は小さくて、原因は「これ!」という感じで言われるんだけど、だからって急に場面転換があるわけでもなくって、じわじわ日常が侵食されていくような居心地の悪さがあって、それからドカン!と続いた習慣や日常が終わる。そのあとはどうなるのかと言えば、何かが極端に変わるわけではない。彼女たちはずっとお城で暮らしているのである。

読んでいると不思議と人間は幸せにしか生きられないのでは?と思えてくる。本当に不思議である。確かに彼女たちの日常は消え失せたし、彼女たちが大切にしていたものが踏みにじられて汚されていった。それなのに、残り物をかき集めて姉妹二人は幸せだと言うのだ。

まるで幸せは本人たちにしかわからなくて、不幸は他人にしか見えないもののようだ。

物語の序盤からすでに「幸せ」には見えなかったから、破滅に向かうシナリオにしては読んでいる側の「幸せ」への執着が無いように思う。だって何が起こっても二人は幸せそうだったから。読み終わっても序盤にあった日常に想いを馳せることもない。

 

シャーリイ・ジャクスンの短編集なんかも面白いらしいから読んでみたいと思うが、アメリー・ノートンも気になっていてこれは蔦屋書店では見つけられなかったので今のところAmazonに頼るしか無い。先日、蔦屋書店に行って5冊買ったのでこれも読まなければならないのだが、それ以前に何年も前から積んでいる本も読んでしまわなければならない。この上ない贅沢をしている気分になる。だから却って読むのが惜しいとも思ってしまう。こうなったらもうどうしたらいいのかわからない。

 

誰かが感銘を受けたという本を片っ端から集めては読んでみてはいるけど、確かにプロが認めるだけあってどれも衝撃を受ける。これが天才なのか!と思ってみたりもする。そこかしこで誰もが挙げる作品名を私も言うのは、でもちょっと恥ずかしかったりする。どうせ同じような書評しかできない。誰かの受け売りしか言えなくなってしまうっていうのは、私の目指すところではない。

 

空腹時に満腹の気分を思い出すのと、満腹の時に空腹の気分を思い出すのとではどちらがつらいのか。

 

「不幸の中で昔の幸福を思い出すことほどつらいことはない」のか?

 

どうでもいいけど、昔引用符のマークのジェスチャやって(よく洋画とかで見る両手をピースの形にして指を曲げるやつ)、勢い余って親指を人差し指の爪で引っ掻いで皮膚を抉ったことがある。怪我の理由があまりにもくだらなすぎて話のネタにもしなかったが、あのジェスチャ見るたびに思い出すどころか引用符だけでも思い出す。もういい加減忘れてもいいと思うのにいまだに思い出す。こうしてブログに書いたのは、何かに書き留めることで脳みそが安心して忘れてくれるんじゃないかって思ったからだ。

本当に忘れてしまいたいことがあったことを時々思い出して、何を忘れてしまいたいんだったか思い出そうとして、何一つ思い出せなくて安心することがある。

何かの拍子に思い出さなければいいな、と時々思う。

 

今日も明日も明後日も本が読みたい。

ケーキと敬意の話

が楽しくてクリスマスの夜にこんな話をせにゃならんのだ…

楽しいクリスマス気分を台無しにされたくなければ今すぐこんなブログなんか見るのやめて乳繰り合うなり楽しい事しててくれや……

ほんっとにしょうもない話で泣けてくるのだが、事の起こりは12月某日である。

 

12月某日。世はクリスマスムード一色の中、母が取り出したるは某コンビニのクリスマスケーキカタログ。今年はどのケーキにしようかしらん、と私のような……下賤の……引きこもりクソニートに尋ねてくる。動かざること山の如し私に、クリスマスケーキなどというカロリーの塊を食わせようというのだから、適当には選べまい。食いきれて、かつ飽きず、楽しみともなるクリスマスケーキだ。定番のショートケーキは苦手なので、チョコレート……という流れも定番で、ならばチーズケーキ……までテンプレートとなりつつあったので、いっそ不二家のなんかこう、ちっこいケーキいくつか詰め合わせになったものを選んだ。余は満足じゃ。小さくて彩りがあり、飽きずに完食できそうである。完璧だ。今年のクリスマスは不二家であるぞ!天晴!

 

とはならなかったのである。

それから数日経った12月某日である。クリスマスまで一週間を切っている。

仕事から帰宅して早々、母が不二家のケーキは受付期限が過ぎていると言い出す。この時点で私の完璧なクリスマスは無くなった……ええい、クリスマスなんかどうでもいい。私の中で今年のクリスマスケーキは不二家のあのケーキアソートしかありえなかったのである。それが無くなってしまった今、別にクリスマスケーキは何を選んだって一緒だ。と思っていたのに、母が違うやつを決めておけ明日までだと言ってカタログを置いて行った。何なのだ。クリスマスケーキの決定を私に委ねるのは何故だ。そこまでして食わなければいけないのか? 自分の食べたいケーキさえ選べないのか?

よくわからんが、少し腹が立ったので、この時第一希望から第四希望のケーキを選び、第五希望としてピザをチョイスしておいた。付箋に書いてカタログに貼り付け、母に託した。翌朝、ケーキは何にするの?と聞いて来たので怪訝に思っていたら、ピザとケーキどっちがいいの?と言い出した。第一希望で予約できればそれで済む話なのにそれを聞くのか、と。第一希望って何なんだ……順序つけてんのにどうして並列に扱うんだ……小学生を相手にしてるような気分になってくる。

 

そして12月24日。母がクリスマスケーキを取りに行って帰って来た。箱に貼ってあったシールには私がチョイスしたケーキでは無いものが書いてある。よくわからんがケーキ二つ買ったのかと思って、コーヒーを淹れている間にシャワーを浴びにいった。思えばこの時に一言言えばまだ事態はマシなものになっていたのかもしれない。シャワーを浴びている間に母が電話をしているようだった。どうやらケーキの購入先であるコンビニから連絡があったのかよくわからないが、通話相手はそこであったらしい。話もなんだか要領を得なかったのでわからん。ただ私が第一希望にと選んだケーキと取り違えたものなのか、それが無いから第二希望のものを買って来たつもりだったのかよくわからん。そのあとの憤慨で死滅してしまった脳細胞は知っていたかもしれないがもう今の私の記憶では定かではない。カタログに載っていたチーズケーキ三種類のうち私が希望していたのは二種類で、母が買って来てしまったのは私が選ばなかったものだ。不幸中の不幸である。私がチーズケーキで選んだのはそれ以外の二種類だったんだよ、と伝えたところ、別に謝罪の一言があるわけでもなく、「あれ、そうだった?」なのだ。そこが我が母親らしい。自分の非を認めないと同僚のことをあーだこーだ言う割には、そういうところがある。一体私がケーキを選ぶのに使った時間はなんだったのだろう、と思いながら、謝罪の一つもない母親の態度と期待はずれのクリスマスケーキにがっかりしてため息がこぼれる。と、母がここで「じゃあケーキ取り替えてくる!?」と言い出す。言うと思った。面倒臭い。ごめんなさい次は気をつけるから今日はこれで我慢して、というセリフは母の口からは出てこない。あくまで自分は悪く無いのである。自分が悪く無いのなら誰が悪いのだ? そう、私だ。私が悪いのだ。自分が金を払うわけでも無いのに買って来たケーキにいちゃもんをつけている私が悪いのだ。ここで「別にいいよ、こっちも美味しそうだし食べよう」というセリフが出てこないのだ。悔しいから。こんなの認めたらだって私がケーキを選ぶのに割いた時間と期待が台無しになってしまうのだ。損してるの私だけじゃないか。なので黙りを決め込みながらケーキを食べた。「美味しい?」と聞かれて「美味しいんじゃない?」と素直じゃない返しをした。ケーキは普通に美味い。もうそこから険悪なムードだ。円満に終わった陸王を見ながら険悪になるお茶の間。美味そうなものを食っている私と母に、飼い犬が自分にも寄越せと吠える。大型犬ゆえに声も大きい。苛立ちを隠しもせずに怒鳴りつける私。母が鼻先をぴしゃりと叩いた。食べ終えて、おかわりもせず私は食器を手に席を立った。視界の端で母が食べかけのケーキを床に放った。それに犬が食いつく。気分が悪い。

部屋に戻り、気が緩むと涙がぽろぽろと落ちてきた。私の意見など母には取るに足らないものなのかと思ってひたすら悲しい。何のために第五希望まで挙げたと思っているんだ。とにかく怒りと悲しみで、どこかに言わねば気が済まないと思い、ツイッターで愚痴り、それから謝罪の一言もなかった母親にひとつ言ってやらねば気が済まないと思って、自分の気持ちをないがしろにされたみたいで悲しいとか、お母さんも同じ状況に遭ったら悲しくなりません?ってすごくめんどくさい感情的な女の論調で長文LINEを送り、しばらくして玄関のドアが閉じて鍵が閉まる音がした。母がどこかに行ったのである。私はもしかしたら……と思った。1時を過ぎたころに少し心配になる。2時を過ぎて帰って来た母は、案の定私が食べたいと思っていたケーキを買って来た。コンビニを5件巡って見つけて来たらしい。田舎のコンビニを5件だ。それも我が家を中心として最寄りのコンビニを行脚しているに違いない。この時期の、深夜の峠を越えて、ようやく見つけて帰って来たのだ。それを思うと非常に申し訳ない気持ちになってしまう。送った長文LINEには「ごめん」と一言返事がきていた。私はもうそれで事態を丸く収めていたつもりである。それなのに、わざわざケーキを買ってくるあたりが我が母親らしい。

だが、そうじゃないのだ。

私は言いたい。

 

ケーキを買ってくるよりも、敬意を払ってくれ。

 

ただそれだけである。労力と金を費やすなんてあまりにも馬鹿げている。私にはそこまでするような価値がないのだから。そこまでされたら許すしかないじゃないか。私が悪かったっていうしかないじゃないか。どうして私が選んだケーキじゃないのか、とか説明してくれたら私だってちゃんと聞くし、それならしょうがないねとも思えるだろうに、母は何も言わん。LINEにはごめんだけ。私はてっきり、私がせっかく選んだケーキをどうでもいいように母が扱って適当に買って来たように思っているが、それだって母の立場からすれば随分と違う話になるかもしれない。情状酌量の余地さえ与えてくれない。当て付けみたいにケーキを買ってくる。私が怒っていたの馬鹿みたいだ。

買って来てくれたケーキを一緒に……というような時間帯でも雰囲気でもなかったので母の分を取り分けて冷蔵庫に入れておいた。

「冷蔵庫にお母さんの分入れておいたよ」と言ったら、何言ってんだこいつって顔しながら私に「何が?」と言うのだ。それはちょっと大人気ないのでは? と思って私もこんな時間にわざわざごめんねケーキありがとうと喉元まで込み上げていた言葉を飲み込んだ。絆されるにはまだ早い、という謎の意地が出てきた。

そんなわけで今、胸焼けをこらえながらチーズケーキを食っている。インスタントコーヒーの粉もどこにあるのか知らない(兄が勝手に粉大量にぶっこんで飲むので基本的にどこかに隠している)ので、母に声もかけづらくてやむなくココアを淹れて自室にこもってブログを書いている。

 

ほんまにしょーーーーーーーーーもないけど特にブログのネタもないから記念に。

本当は寛容になりてえ。でも母の筋の通ってないところが許せねえ……。同僚のSさんのことはやたら言うくせに、お前も同じことしとるやないか!ってなって許せなくなってしまう。私はそういうのがどうも許せんのだ。だから同じ穴のムジナであるバカ長男への非難は私がやったことないとこだけ言うようにしている。

 

あーーーーーほんとくだらねーーーーーーー!!!!

でも、この家の中で私の意見尊重されなくなったら死ぬしかないんだよな。どこにも居場所はないんだよ。

 

なんでクリスマスに肩身の狭さを確認しなきゃならんのだ……

ダメ人間たるもの

を掻き毟りたいほど笑ったのは初めてだ。

 

今日は午後から仕事があることを知りつつ、朝から昼まで寝ていた。一週間以上前からわかっていたにも関わらず、どうも生活リズムを調節する気も起きないままになあなあで過ごしてしまった。こういうのは「やる気が起きない」とかじゃなくてちゃんとしなきゃいけないんだろうが、まぁそういうところがダメ人間たる所以なのだ。社会人たるものやる気が起きないなんて正気じゃ言えん言えん。ゆえん。

 

そんなわけで、帰宅して玄関フードに無造作に置かれていた荷物を平静を装いながら小脇に抱えて鍵を回したところで、待ち構えていた猫に構う余裕もなく、数日前に熟考の末ねだって買ってもらった荷物のうち何が届いたのかという興奮とかれこれ数時間耐えていた尿意で頭がいっぱいの私は、ひとまずルームウェアという名のユニフォームに着替え心の安寧を図りつつ、荷物の中身を確認し、トイレへ向かった。この間わずか5分……だったかどうかは知らんが、食べそびれた朝ごはんの目玉焼きをトーストに乗せて食べながら、ゲームやりつつDVDを見ることにした。今日届いた荷物は本が一冊とDVDが一本である。

 

 

スーツを着た裸足の男が5人地に足を付けずに並んでいるパッケージのケースを開けて、DVDをディスクドライブに差し込むと、ずるりと飲み込まれて行った。

 

2時間後すっかり笑い疲れてしまった私は、感想をブログに書こうとして、で、考えているうちに野暮だなあと思ってやめた。

とにかく笑った。頭を掻き毟りそうになるほど笑った。

だって良い歳した大人が舞台の上で馬鹿みたいに「ピーポーピーポー」言いながら走り回ったと思ったら今度は神妙な顔つきで面白いことを言うのだ。

本編の後のおまけで、「野生のヤブ医者」というコント(藪の中に生息している野生のヤブ医者に男三人が会いに行って治療してもらおうとする話)のアドリブ部分がいくつか収録されているが、実はそれがトドメになってて、「あぁ面白かったなぁ」では終わらなくなって笑い疲れるに至ったのだ。

抽象的だったり言葉遊びがあったり、時々シリアスでも馬鹿みたいなことで覆ったり、小林賢太郎が手がけるコントは不思議でボタンの掛け違いみたいな面白さがある。(ボタンの掛け違い自体は別に面白くはない)

 

ラーメンズのコントが好きなら間違いなく楽しめるのでまずはYouTubeで配信されてる公式の動画を見てくれ……

 


ラーメンズ『CLASSIC』より「ダメ人間」

 

たまたまブログタイトルに近いタイトルのコントがあったので載せておきますね。ラーメンズ公式アカウントの動画いっぱい見て君だけのお気に入りのラーメンズのコントを見つけよう!

 

とは言ったものの、教えたくない気持ちもある面倒臭いやつなので見なかったことにしてこっそり楽しんでください。

 

ダメ人間たるもの、眠気に屈することなく積極的に生活リズムをダメにしていくのだ。