生か、しからずんば死である

味のよさというものは物事を強調しないことにある

 


ラットが死んだ new words feat.SymaG - MusicVideo

 

まぁつまり、一週間ほどかけてカミュのペストを読み終えたという話。

ページ数にうんざりするよりも、これだけあれば読み終わることに対する物惜しさみたいなものはないだろうと安心して読み始めた。けど、やっぱり何事にも終わりはあるのだ。

 

「パンか、しからずんば空気を!」

 

最近、妙に懐かしい夢を見る。

中学までの十数年間暮らしていた町で、かれこれもう2年くらいニートをしていて、かつての友人もちらほらと里帰りしている中で、私は誰に会うこともなくずっと引きこもっていて。そんな状況のなか、久しぶりに見る顔が夢に出たらそれはもう全て懐かしいと形容されてしまうのはやむを得ないことだと思う。

今の引きこもり生活では新しい人間関係なんて築かれることなく、眠れば過去を捏ねて弄り倒した世界がそこにあって、醒めれば何の新鮮味も無い生活がある。

中学まで過ごしていた部屋は、その入れ物に何ら変わりないのに、中身がまるっきり変わっていて、窓から見える風景と壁紙と床だけが、その昔からあるものだと確認できた。ベッドも、机も、すっかり変わってしまっただけじゃなくて、棚さえ部屋と同じく入れ物だけは相も変わらず存在して、中身だけが新しいものに置き換わっている。引き出しにしまい込んだままのリカちゃん人形だけは思い出してもいい記憶の象徴みたいに、未だに私の部屋に住んでいる。

日々死滅しては生まれる細胞が肉体にゆるやかな変化をもたらす中で、果たして、幼い頃の自分を大人になった自分と照らし合わせて本当にどちらも同じ自分だと言えるのか。

物の増減を繰り返し変貌を遂げる部屋の内装もまた、かつて自分が過ごした部屋であると言えるのか。

連続した意識や記憶も、睡眠や時間を経ると曖昧模糊としてゆくのに、ましてや意識などたやすく途切れてしまうものだというのに。

だからこそ、私は過去と現在の整合性にこだわるし、どんな記憶だろうと時々思い出さなければ気が済まないのだ。

私は私だと言えるように。何処に誰が居たのかも思い出せるように。

 

懐かしい、という気持ちに、やや苦痛が混じることもある。

便に血が混じるのを見るような気分になる。

 

少しずつ変わっていく中で、「それ」を「それ」たらしめるものは何なのだろう。

 

何かを無かったことにするのは悲しいし寂しい。そこに在ったものを、在ったのだと思い出し続けるのも、今はもう無いことを浮き彫りにするようで、それもまた悲しいし寂しい。私にとって、思い出すとはそういう行為なのかもしれない。

 

私以外の人間は、過去にどう向き合って生きているんだろうか、と思ったり思わなかったりする。現在に忙殺されて、折に触れて昔を思い出す程度のものなのだろうか。わからない。私には過去しかないので、現在を生きている人間のことはよくわからない。

 

自分の人生の責任さえ負いたくない人生だった。