差したままの憧憬

 それは短い春が終わって夏が始まる前の、季節が曖昧な灰色の空の時期の、最後の夜だったと思う。
 中学生の中だるみの時期だって先生も口酸っぱく言っていた2年生の、一番ぼんやりと過ごしたであろう年が今でも鮮明に思い出せるのは、その夜に空から降って庭に突き刺さったモノリスの所為なのは確かだ。
 それまでの寒い夜からどんどん気温を上げて布団も軽くなって、寝入るにはちょうどいい温度が続いていたから、単に先月の連休で崩れた生活リズムが続いて寝付けない私は、窓を開けてぼんやりと月も星もない真っ暗な空を眺めて、時折鼻先を撫でていく風の匂いを嗅いでみたりしながら、柔らかい風が眠気を運んでくるのを待っていた。
 土と草と夜の匂い。昼間とはまるで違う世界が実はちょっと好きで、月明かりも星の煌めきもない暗闇の夜でも、私はいつまでも外を眺めていられた。家の裏にある田圃と川を挟んだ向こうにぽつぽつと並ぶ街灯とか、その下を走る車のヘッドライトとか、月や星には劣るけど私はそういう光も好きだった。
 だからそんなふうに、その夜もぼんやりと過ごして眠くなるのを待っているものだと思っていた私は、赤とも黄色ともつかない色の尾を引いて轟々と唸りながら庭に何かが落ちる1分にも満たない出来事を、その時は夢の中の出来事だと思った。庭に出て確認することもなく、その後はどうしたのか思い出せないけれど、いつになくすっきりと目が覚めた朝は、はっきりと昨夜の出来事を覚えていて、私は普段よりも一時間もはやく起きたのにまるで遅刻寸前みたいにばたばたと大きな足音を立てて階段を降りた。朝食の準備をしていた母に、もう少し静かに降りなさいって窘められたけど生返事をして私は庭に面した窓ガラスにべったりと張り付いた。少し息が上がっていたから窓ガラスが曇って庭が見えなくなったりしながら、昨夜の痕跡を探した。
 雲ひとつなかった昨夜の空をそのまま引き継いだみたいに晴れ渡っていた空は白っぽい水色で、清々しくて、眩しくて、朝露で濡れた瑞々しい庭に反射して、キラキラしていて綺麗、それなのに芝生は長らく手入れされていないから草が伸び放題で、誰も踏み入れたことのないジャングルの奥地の神秘的な雰囲気だけ切り取って持ってきたみたいだった。ここに見たこともない大きな花が咲いていればそれっぽくはなっただろうけど、どこからか飛んできた野草の花がぽつぽつと根付いたりして、化け物みたいな大きさのタンポポの綿毛がそよそよと風に揺れている。
 そんな我が家の小さなジャングルの片隅に、朝露に濡れる焦げ跡と、生い茂る葉に隠れた窪みと、背伸びしてやっと見えた黒いモノリスがあった。つやつやと光を反射して表面が白っぽくみえるけど、黒くて平べったい板が、斜めに突き刺さっている。本当に、あった。
 昨日の夢の続きを見ているような不安を拭うみたいに、堪らず声を上げた。よくわからないけど、なんだか心臓がどきどきしてきて、足元がふわふわするような離人感で体が揺れそうになって、曇った窓ガラスに手形をつけた。
 「ねぇ、お母さん。庭に何か刺さってるよ」
 言ってから、幻覚を見ていた様な気がして、慌ててもう一度庭を確認した。
 黒くて平べったいそれは、斜めに突き刺さり、よぅく見てみるとそこは母がもう随分前に諦めてしまった家庭菜園の区画で、まるで墓場か何かの様に見えた。
 「なぁに?」
 手元に視線を落としながら、母が台所から聞き返す。
 「庭に、なんかある!」
 生い茂る草の向こう側を指差して言うと、母は首を伸ばして庭に面した窓の向こうをちらりと見て「ふぅん」とつまらなそうな声をあげて、それっきり視線を元に戻してしまった。
 「いいから早く、学校に行く準備をしなさい」

 

 

 

 いつもより早く起きたものだから、学校に着くのも必然的に早くて、普段通りの時刻に登校してきた友達が普段は遅刻している私を見て驚いたように時計を見た。3人も。
 登校中、家から遠ざかるごとにどんどん庭に突き刺さったモノリスのことを忘れていて、授業が始まる前の、チャイムが鳴って先生が教室に入ってくる間のわずかな時間に、誰かが「昨日の夜、」と言い出したのが聞こえて、やっと思い出した。自分以外にも暗闇の夜を裂いて飛んでくるモノリスを見た人がいるのかと思って心臓が跳ねた。けれど続いた言葉は「地震があってさ〜、びっくりして飛び起きたんだけど」だったので無意識に止めていた息を吐いた。肺に穴が空いた様なふわふわしたため息が出て、力が抜ける。それ以外に誰も夜にあった出来事の話をしないから、私も何も言い出せずに、その後は日常に紛れるみたいにすとんっとモノリスのことは忘れてしまった。
 下校中にふとモノリスのことを思い出したのは、家に着いて玄関の鍵をひねった時だった。解錠の音と同時に記憶の蓋をこじ開けたような唐突さで、今朝リビングの窓から見た斜めに突き刺さるモノリスが情景として思い出される。露に濡れた、つやつやして黒くて平べったい板。夢みたいに突然空から降ってきた、庭にある我が家の家庭菜園の墓。ジャングルの奥地みたいに伸び放題になってる安っぽい神秘の芝生、の、今は一番の神秘。
 行儀悪く玄関にカバンを置きっぱなしにして、家族共用になってるくたびれた長靴に履き替えて庭へ向かった。いつもなら制服も着替えただろうけど、そんな余裕がなくて、半日過ぎてようやく私は昨夜の出来事を裏付ける物証を間近に見た。膝下に広がるジャングルを踏み荒らして、小さなクレーターの真ん中にあるモノリスに影を落とす。しゃがんで顔を近づけると、黒く焦げた葉っぱの匂いがして、懐かしい気持ちになる。
 恐る恐る指を伸ばしてモノリスに触れた。朝露の綺麗な光の粒はもうとっくになくなっていて、表面をなぞるとざらりとした感触が返ってきた。指先は煤とも土埃ともつかない焦げ茶色に汚れたので、その辺の葉っぱに拭おうとして、手を止めた。虫がついていて、ひゅっと喉が鳴った。逃げるようにして家に入り、そのまま玄関の段差に腰掛けた。三和土には季節外れの靴とか、洗車用のバケツとか、灯油のポリタンクなんかが置きっぱなしになっている。しばし放心した私は、ネジを巻き直したゼンマイ仕掛けのロボットみたいに機械的に、機敏に、動き出した。カバンを乱暴に掴んで、2階の自室まで駆け上がり、乱暴にベッドにカバンと制服を脱ぎ捨てて、部屋着に着替えた。それから玄関のバケツを持って洗面所で水を入れようとして、ふと昨夜の風呂の残り湯を思い出した。浴槽に沈めたバケツを持ち上げると思いの外重く、一旦力を抜き、それから一気に踏ん張って持ち上げた。ざぶざぶと水をこぼしながら、庭へ向かった。だいぶ見慣れてきたような気がするモノリスに、一筋なぞったような跡があったが、上からバケツをひっくり返すとそれもみるみるうちに消えていった。あまり水はけのよくない土が懸命に水を吸っていくし、表面がすべすべになったモノリスは弾いた水の粒をぽろぽろとこぼしていった。
 黒くて平べったい板は思ったよりも厚みがあって、大きさもちょうど授業で使う便覧みたいだった。
 便覧は、重くて厚いわりには授業でそれほど使うわけでもなく、かといって必要に応じて持っていくものではなく、教科書ノートに並ぶ必須の本だったことが生徒の間では不評だった。私もどちらかといえばあまり好きなものではなかったけれど、でも大きさも厚みもモノリスと便覧はよく似ていて、同一視してしまう。
 その日から私は、授業で便覧を開いてはモノリスを思い出し、家に帰ってはモノリスに水をかけていた。
 休日だって、高校受験の時だって、高校の大事なテストがあった日だって、欠かさず毎日モノリスに水をかけていたし、最初はバケツを使って水を真上から落とすみたいに浴びせていたけど、程なくしてホームセンターで手頃なジョウロを買ってもらってからは、花に水をやるみたいな慈しむようなシャワーに変わった。
 とある夏の日に、雑に虫除けスプレーを足にかけてから庭に回って、日課モノリスの水やりをしていた時のことだった。家の裏にある田圃の様子を見にきていた、たぶん農家の人、が眩しそうに目を細めて庭と2メートルくらい高低差のある田圃の淵の畔に立って私を見上げて言った。
 「お嬢さん、朝顔に水やりかい?」
 懐かしむように目尻や口元にシワを作った男の人は、声をかけられた時はアルバイトの若い人かと思ったけれど、顔に刻まれたシワの深さは若い人には見えなくて、おじさんと呼べばいいのかお兄さんと呼べばいいのかわからなくて困りながら、小さな声で「朝顔じゃないけど……」と返した。日に焼けたシワシワの顔は、くたびれたお父さんの財布みたいだった。お父さん曰く、味のある革の色。くしゃっと笑った茶色のツヤのない柔らかい革。何が面白かったのか「ははは!そうかそうか!」と快活に笑って田圃の淵を歩いては、ときどき降りてくる鳥を手を叩いて追い払っていた。
 結局おじさんだったのかお兄さんだったのかわからずじまいだったけど、あの人は夏の間ときどき田圃の淵をゆっくり歩いて、ときどき下手くそな口笛を吹いて、夏が終わる前に見なくなってしまった。

 

 

 

 父が倒れたという知らせを受けた時、ちょうど私は久々に集まった同級生数人とようやく慣れた職場についての愚痴をこぼしながらカプレーゼのチーズだけを食べて安いハイボールを飲んでいたところだった。昔はよく遊んでくれていた父の、力強くて頼もしいイメージが蘇って、一気に酔いが覚めた。滅多にかかってこない母からの電話だったが、涙ぐんだ声も相まって深刻さが窺えて、指先を震わせながら通話を終えて、深く息を吸った。金曜の夜だったことが幸いして、日付は変わってしまったが私よりも実家に近いところに住む姉よりも早く着くことができた。
 病院のベッドに静かに眠る父の顔は土気色で、10年ぶりくらいに私はとある夏の日に会った、おじさんなのかお兄さんなのかわからなかった男の人を思い出した。健康的なツヤがあるわけではないけど、年季の入った革製品の味のある色。くしゃりと柔らかい革みたいな、男の人。お父さんはあの人みたいに、味のある色にはなれなかったのか、と思うとぽろりと涙が出てきた。ぱりっとした病院のシーツは涙を吸うことなく弾かれた雫はわずかな振動で呆気なく転がるように床に落ちた。
 泣き疲れたような母に代わって姉が父の様子を見てるからと言って、私と母に家に帰って休むように促して病室から追い出したので、私は母と疲れ果てたように口数少ないまま実家に帰った。月も星もない真っ暗な夜だった。静かな闇夜を裂くように、母が声を震わせて家の玄関前で「お父さんね……癌なの……」と言った。
 それから、父は10年かけてゆるやかに死んでいった。既婚の姉はずいぶん前に花嫁姿を見せ、第一子の顔を見せ、正月とお盆には欠かさず子供を実家に連れて行き、絵に描いたような親子の義務を順当に果たしていたが、私といえば未婚で、父が倒れてから3年くらいは母に気を揉ませていた。年に何度も帰省していたが、父のことを思って母が私にも義務を果たすことを求めるようになってからはなんとなく息が詰まって、足が遠のいた。だからその頃にはもう、私は庭に突き刺さっていたモノリスのこともすっかり忘れてしまっていた。
 父が倒れてから3年程経って家族から離れ仕事や友人付き合いにかまけていた頃、異例の大出世を遂げたという友人が涙の粒ほどの宝石がついた指輪を神妙な顔つきで私に差し出した瞬間から、トントン拍子で事が進み、どうにか父が生きている間に、姉に倣って義務を果たすことができた。
 父がいよいよという時に病院から一報を受けた母と姉と私は、ベッドに横たわる父を囲んでその顔を覗き込んだ。頬が痩け眼窩が落ち窪み、おおよそ生気というものを感じられない土気色の顔が、ひきつるように動いた。ぷぅんと死の匂いがする。鼻腔に張り付くような、カラカラに乾いた枯葉と腐葉土の匂い。
 骨と皮だけになった父は満足したように少し笑って、それからがぽっと音を立てて肺から空気が抜けた。心電図モニターの波形は平坦になり、耳鳴りのような音が響く。母の咆哮のような泣き声も轟いて、駆けつけた医者や看護師を困らせた。
 そんな母も20年経って老人介護施設に移り住むこととなり、住む人のいなくなった実家は取り壊されて更地になった、と先日姉から連絡があった。
 少し寂しく思いながらも、ふと私は庭に突き刺さっていたモノリスのことを思い出して、週末は出かけることを夫に伝えた。二つ返事で了承した夫は、スマホを取り出して友人と連絡を取り始めたので、口元でゆるく微笑みながら、もうずいぶんと目にしていないモノリスのことを考えた。
 結局、あれは何だったのだろう。
 黒くて、平べったい板。不時着みたいな唐突さで庭に轟々と唸りながら眩い赤とも黄色ともつかない尾を引いて、闇夜の空を裂いた夢で見たような出来事。
 人並みに生きた様に思う人生の中で、棘みたいに刺さっている不可思議な思い出。その後の経験のどれとも結び付けられない出来事。砂利だらけの更地を見れば、もしかしたらモノリスのことも夢だと思えるかもしれない。そう思って、週末は散歩する様な心持ちで実家があったところへ向かった。
 結論から言えば、モノリスはまだそこに突き刺さっていて、周囲の小さなクレーターこそ埋められてはいたけど、黒い平べったい板だけはそこに刺さったまま残っていた。夢ではなかったのか、と声に出たかどうかわからない。
 しゃがみこんで土埃でざらざらになったモノリスを指でなぞった。来る途中に買ったミネラルウォーターの残りを全部かけても、もうモノリスは綺麗にはならない。
 これが何なのかわからないけど、モノリスはここにあって、ここにはぼうぼうに生えた草や花があって、母が作ろうとしていた家庭菜園もあった。あった、のだ。

 

 家の最寄駅に向かう電車に揺られながら、家に帰ったら夫にモノリスの話をしようと思った。きっと友達と飲んで帰って来るだろうから、一杯だけ私の晩酌に付き合わせて、眠たそうに返事をする夫にモノリスの話をしよう。
 もうすぐ帰る、と連絡を寄越した夫の帰宅時間を見計らうように、晩酌の準備をしていたら、本当にすぐに帰ってきた。ずいぶんとご機嫌の様子だったから、あと一杯だけ私に付き合ってと言えば簡単に了承した。クラッカーにハムやチーズを乗せていると、夫が冷蔵庫からウイスキーを取り出して、「あっ」と声を漏らした。
 「そういえば中学の時、夜中に大きな地震があって飛び起きたんだけど、次の日クラスのみんなに聞いても誰も地震なんかなかったって言ってたんだよな……あれ、ずっと不思議でさぁ……」

 

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