メモーリア・プラエテリトールム・ボノールム

の幸福の思い出、という意味らしいです。

 

つい先ほど、シャーリイ・ジャクスンの「ずっとお城で暮らしてる」を読み終えて、とんでもない物を読んでしまった!という気持ちになりながら読書メーターブクログを更新して、若干放心したまま何を言おうか考えている。脳裏にちらつくのは火と小川と美しい庭、それから少女の笑顔と恐ろしい素顔!

それまでの日常から一気に破滅へ向かう様をクローズアップして描かれる話といえば、と聞かれたらいくつか挙げられるくらいにはシナリオとしてはありきたりなのかもしれないけど、それでも私はこの手のシナリオには弱くて、最近でいえばFF15なんかがその典型だったけど、「ずっとお城で暮らしてる」は微妙に違っていて。確かに序盤なんかは日常から始まって、でもその日常が彼女にとっての「最後」であることをチラつかせていて、一体何が起こってしまうんだ!とそわそわしながら読むものの、忍び寄る足音は小さくて、原因は「これ!」という感じで言われるんだけど、だからって急に場面転換があるわけでもなくって、じわじわ日常が侵食されていくような居心地の悪さがあって、それからドカン!と続いた習慣や日常が終わる。そのあとはどうなるのかと言えば、何かが極端に変わるわけではない。彼女たちはずっとお城で暮らしているのである。

読んでいると不思議と人間は幸せにしか生きられないのでは?と思えてくる。本当に不思議である。確かに彼女たちの日常は消え失せたし、彼女たちが大切にしていたものが踏みにじられて汚されていった。それなのに、残り物をかき集めて姉妹二人は幸せだと言うのだ。

まるで幸せは本人たちにしかわからなくて、不幸は他人にしか見えないもののようだ。

物語の序盤からすでに「幸せ」には見えなかったから、破滅に向かうシナリオにしては読んでいる側の「幸せ」への執着が無いように思う。だって何が起こっても二人は幸せそうだったから。読み終わっても序盤にあった日常に想いを馳せることもない。

 

シャーリイ・ジャクスンの短編集なんかも面白いらしいから読んでみたいと思うが、アメリー・ノートンも気になっていてこれは蔦屋書店では見つけられなかったので今のところAmazonに頼るしか無い。先日、蔦屋書店に行って5冊買ったのでこれも読まなければならないのだが、それ以前に何年も前から積んでいる本も読んでしまわなければならない。この上ない贅沢をしている気分になる。だから却って読むのが惜しいとも思ってしまう。こうなったらもうどうしたらいいのかわからない。

 

誰かが感銘を受けたという本を片っ端から集めては読んでみてはいるけど、確かにプロが認めるだけあってどれも衝撃を受ける。これが天才なのか!と思ってみたりもする。そこかしこで誰もが挙げる作品名を私も言うのは、でもちょっと恥ずかしかったりする。どうせ同じような書評しかできない。誰かの受け売りしか言えなくなってしまうっていうのは、私の目指すところではない。

 

空腹時に満腹の気分を思い出すのと、満腹の時に空腹の気分を思い出すのとではどちらがつらいのか。

 

「不幸の中で昔の幸福を思い出すことほどつらいことはない」のか?

 

どうでもいいけど、昔引用符のマークのジェスチャやって(よく洋画とかで見る両手をピースの形にして指を曲げるやつ)、勢い余って親指を人差し指の爪で引っ掻いで皮膚を抉ったことがある。怪我の理由があまりにもくだらなすぎて話のネタにもしなかったが、あのジェスチャ見るたびに思い出すどころか引用符だけでも思い出す。もういい加減忘れてもいいと思うのにいまだに思い出す。こうしてブログに書いたのは、何かに書き留めることで脳みそが安心して忘れてくれるんじゃないかって思ったからだ。

本当に忘れてしまいたいことがあったことを時々思い出して、何を忘れてしまいたいんだったか思い出そうとして、何一つ思い出せなくて安心することがある。

何かの拍子に思い出さなければいいな、と時々思う。

 

今日も明日も明後日も本が読みたい。