きっと半角スペースよりも狭い

ハムメロンを知ったきっかけが漫画だったことが悪いのか私の味覚センスによるものかは分からないが、切ったメロンの上に生ハムが乗ったギャグ漫画じみたものにも食べる作法があると知って以来、生ハムメロンがこの非情で冷酷な現実に存在する世界の綻びの様に思えて不安になる。世界の綻びって何ぞやと聞かれても困るけど。

 

いつから始まった趣味というか癖なのかは自分でもはっきりと覚えていないが、昔から好きな曲の歌詞を書き写すのが好きで、今でも時々気に入った曲があれば歌詞サイトを見ながら使いかけのノートに言葉のひとつひとつを飲み込む様に書き写している。最近だと私が敬愛するミュージシャンである中田裕二さんの静かな朝という曲の歌詞を、サビが一番好きで思わず前のめりになるような勢いで書いた。寝起きにサビのワンフレーズがリフレインされるような中毒じみた症状がでたこともあった。で、まぁ一番好きなサビのワンフレーズなんですけど。

「愛が故ならば 燃え尽きて良かった」

こういう、直球でいて少し遠回しな表現すごく好きで。初めて聞いた瞬間に、あぁずるいなぁって感想が出てきて、自己陶酔にも似た気持ちで何度も聞いた。自己陶酔よりも自己投影の余地が欲し……いや、やっぱ欲しくないかな……

 

私のブログをくまなく読んで自然と忘れてくれてる人たちには今一度ほんのちょっぴり思い出して欲しい。かつて私がひーひー言って頭を掻きむしりながら笑ったとされる例のヤバイDVDの話なんだけど。


minaconaco.hatenablog.com

 

これね、

 


カジャラ#1『大人たるもの』より「ならんだ大人たち」

 

随分前ではあるんだけどYouTubeで見られるようになったので、お手隙でしたら是非観ていただきたく候。

どのネタも面白いんだけど、一番好きなのは「しあわせ保険バランス」かなぁ。

「ならんだ大人たち」みたいな抽象的なネタで笑えるならラーメンズのコントはだいたい笑えると思うのでラーメンズのコントも是非。

 


ラーメンズ『TEXT』より「スーパージョッキー」

 

最近のオススメはスーパージョッキー

 


[HD] ラーメンズ『ATOM』より「採集」

 

ミステリー好きは採集みて。ミステリー好きとラップ好きはみて。

 


ラーメンズ『ALICE』より「不思議の国のニポン」

 

「千葉!滋賀!佐賀!」もいいけど都道府県ネタならこっちも好き。

 


ラーメンズ『STUDY』より「金部」

 

変なのが好きならみたらいいと思う(もう何でもいいから観て)

 

 

今月の初旬くらいに、本屋でここぞとばかりに母親に本を集るつもりで文庫本の棚に張り付いて小説コーナーを行脚してたところ、ふと土俗ホラーが読みたくなって。今までミステリーに傾倒して読む本選んでたんだけど、土俗ホラーはあくまでホラーだから今まで眼中になくて、いざ探すとなるとどこをどう探していいかもわからず。作家のアテがあるわけでもなく、まさかホラー系のレーベルがあるとも思い至らず、戦略的撤退もやむなしと思って本屋を後にしたんですけど、その場で土俗ホラーのオススメでググったら良かったんですよね。でも足が痛くてそれどころじゃなかった。

なんで不意に土俗ホラーが読みたくなったのかというと、土俗ホラー好きなんすよ……でも小説で読んだことはなく、唯一それっぽいものといえば屍鬼かもしれない。

土俗ホラーが好きになったきっかけがフリーホラーノベルゲーム実況で、あれは作業用に垂れ流すのにうってつけだった。(たまたま見た実況者の声が中田裕二の声に似ていて好みだったというのもある)

土俗ホラーの面白いところは、どこか辺境の地で脈々と続く歴史が民俗学と怪奇とミステリーと近親相姦や禁忌にまみれているところで、だいたいはそれが終わりや破滅に向かう話なのでそりゃもう舌舐めずりしちゃうよね。好きだもんそういうの。英雄が自分自身や文明を代償に世界を救うタイプの(正義や主人公の)終わりに向かう話も好きなんだけどそれとは区別して好きで、過去の因縁が後になって最悪の形で現れるだとか近親相姦だとか恋心と信仰の対峙だとかもう土俗ホラーとは名ばかりのミステリーや恋愛ストーリーなわけで。海外ドラマのウォーキング・デッドでかつて人間の脅威だったはずのゾンビがやがて飾りになってしまったみたいに、土俗ホラーもホラー要素が飾りになる。時々思い出したようにその脅威を見せつけてくるけど、土俗ホラーの本質はたぶんホラーではないのだ。たぶん。

次に行く時は絶対に角川ホラー文庫とか坂東真砂子で探してやる……

その前に積んでる80冊以上の小説類をちょっとでもいいから消化しような。

カラマーゾフの兄弟ドグラ・マグラも上巻だけ読んで放置しているから上巻を読み直す必要があるとか、考えただけで気が遠くなるようで、無限に本が出てくる本棚を手に入れたような高揚感もあり、頭を抱えるべきか諸手を挙げて喜ぶべきかで両腕が落ち着かない。

 

 

春になったら働けって母親にケツを蹴られたにも関わらず未だに母親の職場でもある学童保育の代替要員としてフットワークの軽さにも似た曖昧で不規則なふざけた生活を続けているんだけども、毎月2,3日程度は絵を描く木偶の坊みたいな働きをしつつ、母親が吐き出す職場の愚痴に対する理解を深める為にも観察したりコミュニケーションもとったりしていて、かつての自分だったり過去見てきた児童を思い出しながら子供と付き合う内にだんだん昨今の子育て事情が浮き彫りになっていく中で、光陰矢の如く去る自我も曖昧な未発達の情緒をどうとでもできるような柔くて繊細で一生のうちで大切な時期にも当たる年齢の子供達を少しでも正しい方向(これは便宜的な表現)に導く為にはどうしたらいいか、ということをよくときどきふとそのときの気分で考える。

学童保育に預けられる子供というのは基本的に共働きの家庭が多く、家庭環境としては今も昔も大きな違いは無いように思うのだけど、私が学童保育にいた頃の子供達と今の子供達じゃ百八十度くらい違う。あんなに何人も発達障害アスペルガーの子は居なかったような気がする。自分本位な言い方が許されるなら「聞き分けのいい子が減った」と言いたい。リーダーシップをとる気も無いのに大声で威張られるのはこちらも手を焼く。

ちなみに私は保育士の免許もなければ保育専門学校に通っていたわけでもない。ズブの素人である。母親はその道の人ではあったが、別に教えを乞うこともない。知らない方が無責任でいられると思っているのもある。

無責任でいたいが、彼らのいずれ記憶に埋もれて見つけられなくなってしまうであろう思い出に花を飾ってやりてえとも思っている。それもやっぱり無責任に思っている。

思想や思考の舵を取りたいと無責任に思っていて、思った通りにいかなくてもまぁそんなもんだよなと諦めたように思うこともある。母でも随分煩わされているようなのだから私のような素人にできるもんでもないのだろう。

こういうとき、自分の経験や知識でねじ伏せるような強引さでもなんでもいいからうまいことやりたいと思う。プロでなくてもものの道理を理解しさえすれば何にでも応用出来るのだ、というのを体現したい。が、圧倒的に経験も知識も不足しているので早々に手詰まりしてしまう。足りない。その足りなさを補うための努力は、やりたくない。生きている間の努力は、「納得される形で死ぬ方法」に尽くしたい。それは今のんべんだらりと模索しているところだ。

 

 

「心中」を英語で言うと「ダブルスーサイド」になるのすごく好き。

 

 

 

 

心中がダブルスーサイドなら中心はドイサースルブダなのか?